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龍ケ崎城跡

龍ケ崎城が所在した龍が峰の元の形は、現在の竜ケ崎二高から御岳神社に続く小高い連なった丘で、龍の頭の形をしていたから龍が峰といわれるようになりました。

城があった頃は、空堀や自然の地形によって本城、中城、外城と三つの曲輪に分かれていました。本城、中城、外城という名前は廃城後耕作地となった後の小字名です。この小字名により、曲輪の役割が伺えます。本丸は本城と名前が付いたところで、この場所は高度成長期の都市開発で、丘は削り取られ住宅地に変えられてしまいました。

中城は本城より広く、中心となる曲輪が所在し、それに付随する二つの曲輪がありました。幸いにも竜ケ崎二高が立っているため峰の形がそのまま残っていています。藪の中に僅か土塁が見受けられ、西側に鹿島神社があり、狛犬などが一部現存し僅かながら城郭の面影を忍ぶことが出来ます。 外城はもっとも東に位置し、狭い場所だったので高見台程度の曲輪だったと想像します。この曲輪内に土岐家の氏神様大日社が祀ってありました。その場所は現在御岳神社が建っていますが、危険個所があり私有地のため立ち入ることが出来ません。

空堀跡

龍ケ崎城概要

かつて常陸国南部を支配した土岐氏は、美濃国守護を務める土岐氏の支流で、南北朝時代美濃国遠山荘原郷(現岐阜県恵那市山岡町原)を拠点に置いたことから原氏を名乗っていました。その後原氏は関東管領上杉氏の被官として関東に下向し、江戸崎に本拠を置きました。これが常陸南部で勢力を伸ばした原氏のはじまりで、千葉原氏と区別するため土岐原氏あるいは常陸原氏といわれることもあります。一方美濃国では、守護である土岐頼芸(よりあき)が斎藤道三によって国を追われ江戸崎に身を寄せます。こうして土岐宗家が没落したため、原氏は土岐氏の再興のため土岐氏を名乗ります。以下、総て土岐氏で統一します。

江戸崎城主土岐治英(はるひで)は、下河辺氏が築いた町場がある龍ケ崎地方を統治するため、龍が峰という丘陵に城を築きました。永禄10年(1567)10月から改築工事がはじまり、翌11年に治英の次男胤倫(たねとも)が城主として配置されたと記録されていますので、築城はそれ以前ということが分かります。龍ケ崎城を土岐氏第二の拠点とするための大規模な改築だったと思います。龍ケ崎城の城主となった土岐胤倫は龍ケ崎のまちづくりに着手します。そして多くの事跡を残しますが土岐氏の支配は長くは続きませんでした。

その後、豊臣軍の小田原北条征伐に伴い、天正18年(1590)北条傘下の土岐氏は豊臣傘下の佐竹義宣(さたけよしのぶ)軍との戦いで敗れ落城となります。その後、龍ケ崎の支配者は芦名盛重(佐竹義宣の実弟)となります。盛重は龍ケ崎城を廃城にし、江戸崎城を本拠としてこの地を支配します。しかし、関ケ原合戦では石田三成に加担した芦名氏は、徳川家康による戦後処理で、慶長7年(1602)江戸崎領を失い、秋田に左遷となりました。その後、龍ケ崎は関ケ原で戦功のあった伊達政宗の領地となります。