神社仏閣top 米薬師堂 八坂神社 大統寺 般若院 愛宕神社 龍ケ崎観音 医王院 鹿島神社(田町) 来迎院 常光院 日枝神社 高田神社 大徳薬師寺 永福寺 鹿島神社(大徳)  

龍ケ崎観音(龍泉寺)

由来

龍ケ崎観音と呼ばれていますが、正式には東福山水天院龍泉寺といい天台宗の寺院です。ご本尊は聖観世音菩薩、創建は8世紀初頭(淳和年間)蓮雪法印(日光山開山、勝道上人の高弟)が開祖といわれています。

ご本尊の聖観世音菩薩は、淳和天皇の勅願による弘法大師作といわれています。その由来は平安時代の淳和年間(823年~833年)、京都及びその周辺諸国では難産に苦しむ人が多く、天皇は弘法大師 (774年~835年)に、この難を収拾してほしいと勅願しました。大命を受けた大師はこの危難を救うため、日夜大慈大悲の名号を唱えて一刀三礼しながら彫刻を彫り続け、こうして完成したのが観世音菩薩の尊像です。これにより難産に苦しむ人々は、安産するようになりました。しかし、東国では未だ難産する者も多く、蓮雪法印はこれを憂い、弘法大師に観世音菩薩の尊像を東国に移すことを懇願します。そして願が適い、当地に安置し一宇を建立したのが龍泉寺の始まりといわれています。

中世になると、天正年間(1573年~1592年)。龍ケ崎城主土岐胤倫公の息女虎姫(お福の方)は、江戸崎城主である治綱公(胤倫の兄)の嫡男頼英公のもとへ嫁ぎご懐妊しますが、難産に苦しみ、医薬の効果はありませんでした。これを聞いた江戸崎不動院住持の慈眼大師天海(後に上野寛永寺を開山)は龍泉寺より尊像を請来し、17日間城内にて安産の秘法を修したところ、虎姫は玉の様な男子をご出産されました。土岐胤倫はこれを喜び、御堂を造立し、お福の方にちなんで、東福山水天院の号を比叡山延暦寺より賜ったと伝えられています。これより、安産観世音菩薩の信仰は諸国に広がり、龍泉寺は龍ケ崎の観音様と呼ばれ親しまれるようになりました。

明治初期、権僧正晃善は十数年の歳月をかけ、八間四方の堂宇を再建するも明治16年(1883)、龍ヶ崎の大火に遭い、焼失します。その後も3度の戦乱により市民は疲弊し、永い間本堂の再建はならず、御本尊は仮堂に納められていました。そして高度成長期の昭和50年(1975)、多くの信徒のお布施により、現在の本堂が落成しました。

境内には大小2体の観音様の他200体もの水子地蔵や、体に触れると病気治癒のご利益があるおびんずる様、水子堂、六地蔵、水舎(みずや)等があります。

祈願

龍泉寺では、絵馬を参拝者に配り、参拝者はそれに自分の願い事を書いて祈願します。安産を祈願する人には安産のお守り、腹帯、ろうそく、餅、米を授けています。餅は紅白のどちらかで、白ならば男の子、赤ならば女の子が生まれるとされ、不思議とよく当たると評判です。

縁日

毎月17日で、特に正月17日(現在は15日)は近隣からの参詣客でにぎわいます。7月10日の「ほおづき市」は、4万6千日分の参拝をしたことになる功徳日で、お参りをしてほおづきを求める人が数多く詰めかけ、まちの風物詩になっています。