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般若院

由来

山号寺号は金剛山観仏寺。本尊は聖観世音菩薩です。寺伝によると、天元元年(978)、道珍によって貝原塚に創立されたと伝えられています。大永4年(1524)、現在地に移り、小野逢善寺十二世尊雄の法子考観によって堂宇が建てられ、八坂神社の別当を務めるなど寺院の基礎が固まったとされています。

貝原塚の金剛院の山号寺号は金光山観仏寺で、般若院の山号寺号と似通っています。考えられることは、貝原塚にあった観仏寺が二つに分かれ、根町に移転した方を般若院と称し、貝原塚に残った方を金剛院と称したと推測出来ます。

天正年間(1573~92)に定雄が中興し、阿弥陀堂・観音堂を建立し、土岐氏の祈願所になったと伝えられています。

寛永年間(1624-44)の住僧定栄は、東叡山の御経奉行を勤め、寛永17年に能化(学問上の指導者)に任命されています。中興五世の朗月晃順法印は、後水尾天皇の勅命で法談(仏法の要義を説き聞かせること)を行ったほどの学僧で、雨乞いで江戸の干ばつを救ったといわれています。当地でも農地開発をし、貯水地を作り勧農に努めました。現在でも朗月池、光順田の地名が残っています。この朗月法印の功績によって、般若院は逢善寺の一臈座(いちろうざ-末寺代表)の地位を占めるようになったそうです。

寛永5年(1628)2月、伊達家歴代の位牌所として、江戸時代を通じて3石の供養料が仙台藩から与えられていました。こうしたことから、今でも盆には伊達家の供養が行われているそうです。

中興12世義堂(道)法印は天正年間に造営した諸堂の改築と、当時別当をしていた愛宕神社の社殿を12年もかけて建立しています。仙台藩第5代藩主伊達吉村が龍ケ崎を訪れた時、般若院住職が愛宕神社に案内したと記録されています。

般若院を中心に、東の龍が峰を大文字山に見立て、西に愛宕山、その間に白幡台があり、というように、京都の地形に例えられ、この地方の信仰の中心であったとも言われています。

安政3年(1856)、大暴風のため阿弥陀堂・鐘楼堂・総門を残して倒壊しましたが、その後徐々に復興してゆきます。現在の本堂、講堂は昭和34年から4年の歳月をかけて建てられたものです。昭和38年には、比叡山延暦寺より天台座主大僧正をお招きし落慶法要が盛大に営まれたそうです。

県指定天然記念物 しだれ桜

本堂北側には樹齢500年の枝垂れ桜の老木が聳えています。この桜は般若院が現在地に移されたときに植えられたそうです。樹高12mの枝垂れ桜は県指定の天然記念物で毎年春、市内外だけでなく県外からも多くの観光客が訪れます。 昭和30年に撮影された写真を見ると、枝垂れ桜のすぐ近くに池が写っています。池に小舟を浮かべて花見が出来たようです。池があった場所は現在墓地になっています。