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筑波庵

特徴

屋根が筑波山の形をしていることから筑波庵と呼ばれているこの屋敷は、江戸中期の学校(俳句の道場)で、近世の俳諧における貴重な文化財と考えられます。

建物の構造は木造平屋、藁葺屋根(現状はトタン葺き)和室3間の他増築部分に台所と風呂場があり、いたって質素な造りです。質素な中にも、翠兄時代のものと思われる、床の間の落とし掛け、長押しの雛止め部分や釘隠し、杉材による一枚板の建具など格調高い意匠となっています。

保存を目指して

長年管理人不在が続き現在は廃屋となっており、このままだといずれ朽ち果ててしまいます。そこでNPO法人龍ケ崎の価値ある建造物を保存する市民の会は、これを何とか次世代に残せないかと模索しながら、所有者と話し合いの上、雨漏りの補修、庭内の草取りや寒山竹の剪定等の管理を代行しております。

貴重なのは建物だけでありません。庭内には服部嵐雪の句碑があり、同じく庭内の寒山竹は市・指定文化財になっております。NPO法人はこれらを合わせて史跡として、また翠兄の功績が体感出来る施設として、生かしていく方法を考えております。

杉野翠兄について

杉野翠兄は宝暦4年(1754)、龍ケ崎村の油商を営む杉野治兵衛家に生まれました。家業を継ぎ世襲名杉野治兵衛を名乗りますが、その傍ら江戸に出て松尾芭蕉の流れを汲む俳人大島蓼太(おおしまりょうた)の弟子となり江戸俳諧で活躍しました。

天明元年(1782)翠兄は筑波山の鳥居傍に嵐雪の碑を建てました。嵐雪とは松尾芭蕉の高弟服部嵐雪のことで、これがきっかけとなり翠兄への入門者が増えました。そして、翠兄は弟子の教育の場として龍ケ崎上町に筑波庵を建てました。弟子の数は数百人と言われ、常陸、下総、下野に江戸俳諧をひろめました。七畳半の和室は翠兄が活躍した往時を偲ぶことが出来ます。

庭内の嵐雪の句碑は「めい月や柳の枝を空へふく」と刻まれています。また、砂町医王院には大島蓼太の「たましひの入れものひとつ種ふくべ」という句碑があります。いずれも翠兄が建てました。

蓼太の没後は江戸俳諧の雄の一人といわれ、小林一茶とも交流がありました。

文化10年(1813)60才で没し大統寺に葬られています。法名は「狐峯軒徳府道隣居士」で、碑文によると、「人となりは風流で俗を離れてあっさりしており、俳諧では滑稽でおもしろい佳い句をたくさん作った」とあり人柄の一端を知りことが出来ます