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頼政神社

龍ケ崎の祖といわれている下河辺政義が崇敬する源三位頼政を祀ったところといわれています。現在の頼政神社は神木に守られた形の小さな祠ですが、明治初期にはりっぱな社殿があり、昭和期まで社や鳥居、木立があり多くの参拝者が訪れたといいます。

源頼政は平安時代末期の武将で、清和源氏でありながら平家政権で中核をなし、平清盛からも信頼篤く、源氏としては突出した従三位の地位を得ていました。しかし、頼政は平家の専横ぶりに怒りをおぼえ、平氏打倒を呼びかける以仁王(後白河天王の子モチヒトオウ)と共謀し、平氏打倒を計画します。こうして以仁王方と平家方との激突「宇治平等院の戦い」が口火を切り、俗に源平合戦と言われている治承・寿永の乱(治承4年-1180~元暦2年-1185)の開戦となります。以仁王方は計画が予め露見したため不利な闘いを強いられ、頼政は追い込まれ自害します。

伝説では頼政が自害する時「吾が首を東国に運んでくれ。吾が止まらんと欲するところに行き当たれば、首が重くなる。そこに吾が首を葬ってくれ。」と家臣に遺言を託します。さて、家臣はいわれたとおり、首を東国に運ぶと、突然馬が動かなくなるほど首が重くなり、そこに首を葬った。この伝承が頼政神社の由縁となっています。

頼政神社は下河辺政義の本拠地古河にもあります。旧地名でいうと下総国葛飾郡古河立崎で、大正時代河川工事により同市錦町に移転しております。やはり源三位頼政を祀った神社で、由縁についても龍ケ崎とほぼ同じです。 以仁王の乱は失敗に終わりますが、源頼朝を中心とした打倒平家に火が付きます。治承・寿永の乱では下河辺政義は頼朝に従って戦い功をたてます。その恩賞として常陸国南部の地その他を与えられたのです