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撞舞通り

撞舞は、八坂神社祇園祭の最終日に行われる神事です。1999年(平成11年)に国選択無形民俗文化財に選ばれ、2010年(平成22年)県の無形民俗文化財に指定されました。この神事を行う通りを撞舞通りと呼ばれています。祇園祭最終日には撞舞のほか、神馬の儀式と獅子の儀式も行われています。

撞舞の起源に付いては中国から奈良時代に伝わった散楽(軽業・奇術・滑稽物真似に音楽を伴った雑多な芸能)が神前で行われる芸能となり、時代とともに地方に伝えられ、庶民生活と密着して変化したものと考えられています。

 龍ケ崎の場合は,水田地帯であり人々の雨乞いや五穀豊穣等の願いが加えられ、現在の撞舞になったと考えられています。

 撞舞が行われるつく柱は15メートルほどの丸柱で、先端に横木を付けその上に円座を載せてあります。舞男と呼ばれる舞の演じ手は、唐草模様の筒袖襦袢に裁着袴の衣装と雨蛙の被り物をかぶり、おごど囃子に合わせて曲芸を演じながらつく柱を登ります。頂上に達すると円座の上に立ち四方に向かって矢を放ちます。その後逆立等さまざまな軽業を披露し、最後に頭を下にして斜めに張った綱を滑り降ります。

撞舞会場の根町について

通説では、源頼朝の信頼を得て常陸国南郡の地頭職を任された下河辺政義(しもこうべまさよし)は、文治2年(1186)領地であった貝原塚の領民を引き連れ、沼沢であった根町を開拓しました。これが最初の龍ケ崎の町づくりです。その際に、貝原塚の鎮守である八坂神社を分霊し、現在の般若院が所在する場所に祀ったといわれています。

その後、永禄11年(1568)に土岐胤倫は、龍ケ崎城の城主となりこの地を支配します。そして龍ケ崎第二の町づくりを行いました。それが上町を中心とした現在の市街地の原型となります。その後胤倫は天正5年(1577年)に根町の八坂神社を上町に移し現在に至っております。

八坂神社の祭礼の際、御仮屋が般若院の正面入り口に建てられ、神官が供物を般若院にあげるしきたりや、撞舞などの神儀が根町で行われるのは、こうした経緯によるものと考えられます。 町の賑わいが上町に移る中、根町は土岐氏によって誘致された商職人や、一部の家臣の屋敷が多く、武家人のための商工業を中心とした町が形成されました。龍ケ崎の町が八坂神社を中心として栄える中、根町は格式の高い町だったことが考えられます。