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米薬師堂

江戸時代まで新町に所在した高森山本願寺の別院でありましたが、本願寺は龍ケ崎大火(年代不詳)以降に廃寺となり、以後天台宗般若院によって管理されております。

本願寺住職の記録では、本尊の薬師如来は行基の作で、加藤清正の守護仏であったそうです。清正の家臣であった浪人が剃髪し諸国修行の途中、慶長10年(1605)龍ケ崎へ来てお堂を建て薬師如来を安置したといわれています。米三粒に霊水を含ませ、秘文を唱えると難病の娘が快癒したことから米の薬師様として信仰されたそうです。

江戸時代、薬師信仰を崇拝する伊達政宗の命により東西の薬師堂を定めます。即ち西の米薬師堂、東の砂町薬師堂(医王院)で、そこに仙台領柱を立てました。米薬師堂は龍ケ崎の西の護りとして宝永元年(1704)造立されました。

米町の薬師様は病気平癒、開運の薬師といわれ、地元女人講中が奉納した大きな絵馬のとおり明治〜昭和の時代まで隆盛を誇っていました。

11月23日のいがっぺ市(商業祭)は元々薬師市といわれ米薬師様の祭礼でした。芝居や見世物興行などがあり、遠方よりたくさんの行商人、見物人が訪れ賑わったそうです。

堂内には薬師如来、日光菩薩、月光菩薩の他に十二神将が置かれ、薬師如来は秘仏で厨子の中に安置されています。十二神将は薬師市(いがっぺ市)の日に拝観することが出来ます。

戦前の薬師堂は、今よりも竜ヶ崎駅寄りに位置し、東を向いて町の賑わいを見守る様に置かれていました。太平洋戦争が始まった昭和16年(1941)軍用道路施設のため曳家工法により現在の位置に移動しました。

境内には享保10年(1725)に建立された延命地蔵尊があります。この仏像は民衆を薬師瑠璃光如来に導く案内役で、参詣者を迎える形で座っているのが本来の位置ですが、薬師堂の移動に伴い向きが変わり、本堂に向かって横向きという不自然な座り方になりました。そのほか諸岡良佐氏 頌徳碑があります。諸岡氏は龍ケ崎銀行頭取、龍ケ崎町長、あるいは龍ケ崎鉄道会社社長を歴任し、龍ケ崎の文化・経済の進展に貢献された方です。八坂神社裏手に移築された赤レンガ門塀を建てられた方でもあります。