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馴馬城跡

馴馬城は、東西に伸びる舌状台地の東端を掘切で区切るという類型的な構造をしています。中心部(歴史民俗資料館西側駐車場から東京ガス付近)が破壊されていて遺構が明瞭ではありません。現存する部分を見るかぎり、めりはりがなく、それだけに古風な形をした城跡と言えます。明確な遺構として土橋や空堀が現存しますが、いつの時代のものか不明です。

中世の記録では馴馬城は沼田城と言われていて、南北朝時代初期から常陸国河内郡の南朝拠点として築城されたと推定されます。歴代の城主は不明ですが、文献には暦応4年/興国2年(1341)「河内郡馴馬楯引退」と記されていてことから、北朝方から攻撃を受け、城を明け渡したことが伺われます。

その後、関城・大宝城の戦いに敗れた南朝方の春日顕国(かすがあきくに)は大宝城から逃れ南下します。そして顕国は康永3年/興国5年(1344)再起を期して馴馬城を占拠し北朝方に抵抗を続けますが、北朝方、笠間の宍戸氏の攻撃によって落城しました。顕国は再び逃走し大宝城へ舞い戻りますが、間もなく北朝方に捕捉され、京都に送られ斬首刑となります。

落城後の記録はありませんが、戦国時代には龍ケ崎城の支城の役割を成し、土岐氏の家臣らが守備していたと思われます。戦国時代末期、土岐氏滅亡とともに廃城になったと考えられます。

1940年4月5日に茨城県指定史跡に認定されました。